自衛隊と屍衛兵と。催主昔話 2008年2月号の15 |
軍隊用語で、屍衛兵(しかばねえいへい)と云う用語がある。 この時期になると自衛隊生徒時代、屍衛兵に一度だけ立ったことを思い出す。 もう50年以上、昔のことで記憶違いもあると思うが書いておきたい。 俺は第三期自衛隊生徒だった。 今は、どうなっているのか知らぬが。 昔は。 生徒課程が終了するまでの四年間は。 全生徒、同じ学校で、みんな仲良く卒業まで過ごすことは無かった。 前期の教育が終わると、一年間の部隊実務修習に行くからだ。 俺達の場合、目の上のたんこぶであった、第二期生徒が部隊実務に出かけると暫くして。 第一期生徒が、部隊実務を終わって学校に帰ってきた。 最後の六ヶ月間、陸曹教育を受ける為だ。 第一期生は二十名ほどであった。 教育の内容は今までのと、がらりと変わり更に高度のものに変わっていく。 教育法が主となり、毎日、自分でどのように部下に教えるかの、勉強がメインとなってくる。 第一期生徒の事故は、爆破の訓練の時に起こった。 前期の教育でも爆破は基本教育を受けるが。 当時、使用する爆薬はTNT、C-3、導爆線ぐらいだ。 それも殆んどの教育は。 爆薬、雷管の運搬、取り扱い、保管等の基本教育が主で、訓練では電気雷管や普通の雷管を爆薬へ装着して、爆薬単体での爆破訓練が主であった。 しかし、最後の教育では実戦の教育になる。 鉄骨、線路、道路、大木、鉄条網、等の爆破訓練である。 その事故は、道路の爆破訓練の際に起きた。 硝安爆薬を。 道路に見立てた砂地に埋めて、次々と誘爆をさせ、道路を破壊する訓練であったらしい。 硝安爆薬を五缶埋めて、導火線に点火。 大急ぎで退避壕まで退避、目と耳で爆発を確認したが、一発不発だったらしい。 不発は火薬の劣化により、時々起こりえる事態であり、その処理も訓練の一つである。 時間は忘れたが、不発の場合は何十分間は待った後に、見に行く決まりになっていた。 そして不発の爆薬の隣に、他の爆薬を装着か、埋めるかして爆発させ。 再度、誘爆を試みるのが常識であった。 硝安爆薬は四発の爆発でも、地面にかなり大きな逆円錐形の穴が開く。 その穴の周りに立って、誘爆用の火薬を何処に埋めようかと、検討している時。 突然、不発だった一発が爆発したらしい。 原因は不明だが、火薬はとんでもないときに突然、爆発する時があることは知ってる。 爆薬の爆発時の力は壁の薄いほうに抜ける。 たまたま、その延長線上に、S先輩が立っていたらしい。 昔の戦争映画を見ると判ると思うが。 戦場では鉄カブトのあご紐は締めない。 近くに砲弾が落ちたとき、爆風で鉄カブトが持ち上がり。 顎が紐で引っ張られ、首の骨が切れるからだ。 爆破訓練中も、絶対に鉄カブトのあご紐は締めないのだが、先輩は運悪く一時的に締めていたらしい。 外国では、ガス爆発の恐れがある化学プラントの従業員は。 絶対に、ヘルメットのあご紐を締めないのは、その為だ。 残念ながらS先輩一人が殉職。 他の先輩達は、爆風で眼球や鼻腔、顔に砂がめり込み。 長期の入院を余儀なくされたが、無事卒業された。 その夜から、亡くなった先輩の為に。 我々が交代で屍衛兵を務めた。 当時、自衛隊の規則の中に、屍衛兵の規則があったかどうかは承知していない。 我々は、交代で二名づつ、棺の両側に正装、着剣したM1ライフルを携えて、棺の出棺まで付き添った。 俺が衛兵として立った朝方に、先輩のご両親、家族の方々が駆けつけられた。 俺も立っていて辛かった。 その後、故郷で葬儀を営むとの事で、棺を正門で待つ車まで送っていった。 当然のことであるが。 銃は、弔意を示すために銃口を下にして肩に掛けた。 先輩が殉職された場所は。 当時、自衛隊が射撃場として使用していた、茨城県勝田市の。 通称、FF射場と呼ばれた海岸だった。 ここは、米空軍の戦闘爆撃機が、原爆投下の訓練をする場所の端に位置していた。 のちに射場の片隅に、白木の慰霊碑が建った。 今は、どうなったろうか?。 これからの自衛隊も屍衛兵が立つ事態が増えていくのであろうか。 ●全ての写真、文章の転載を禁じます。 |
by kiwasiti
| 2008-02-25 20:01
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